木下惠介 (1912-1998)
1933年に松竹キネマ蒲田撮影所現像部に入社。島津保次郎に引き抜かれて助監督に転じ、1943年に『花咲く港』を初監督する。「男性映画の黒澤」「女性映画の木下」といわれ、同年にデビューした黒澤明のライバルと目される。日本初の長篇カラー映画『カルメン故郷に帰る』(1951)に挑戦する一方、『二十四の瞳』(1954)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957)などの抒情的なメロドラマで国民的監督の地位を獲得。軽快な喜劇から重厚な社会派映画まで自在に演出し、日本映画の全盛期を彩る。新人の育成にも手腕を発揮し、小林正樹、川頭義郎、吉田喜重らを輩出。1964年に松竹を退社してからは活動の拠点をテレビに移し「木下恵介アワー」などを手がける。強くたくましい男性性が求められた戦時中から高度経済成長期に木下が一貫して描いたか弱く繊細な男性像は日本映画史のなかでも異彩を放ち、近年ではクィア・スタディーズの観点からの評論も書かれている。
(執筆:具 珉婀/参考文献:国立映画アーカイブ企画上映プログラム)
(執筆:具 珉婀/参考文献:国立映画アーカイブ企画上映プログラム)