1990年代、相米慎二の撮影現場で見出した「良き映画づくり」のエッセンス
1990年代、日本映画界の新たな潮流をつくった映画人がいる。
安田匡裕。生前、自身の名前が目立つのを慎重に避けた人だったので、一般の映画ファンの記憶に、どれだけ彼の名前が刻まれているのか心許ない。
安田は大学卒業後、映画製作、CM制作を手がける電通映画社に所属し、数々のTVコマーシャルの企画、演出を手がけた後、独立。1987年に立ち上げたエンジンフィルムで相米慎二の映画を手がけ出す。初めてのプロデュース作は、相米監督の1990年の『東京上空いらっしゃいませ』。安田の勝手知ったるバブル期の東京の広告業界の華やかさを投影した内容である。
今作は、相米が長谷川和彦、石井聰亙、井筒和幸、池田敏春、大森一樹、黒沢清、高橋伴明、根岸吉太郎とともに立ち上げた映画監督主体の映画製作会社、ディレクターズ・カンパニーの制作であるが、同会社は1992年に倒産。相米は著書「相米慎二 最低な日々」(A PEOPLE)に収録された「相米慎二、自作を語る。」で、「この映画を撮った後、“俺、映画もう辞める”って言ってた」と迷いのある時期だったことを述懐している。
しかし、相米は安田と再び組み、『お引越し』では京都、『夏の庭 The Friends』では神戸と、小学生の内面の成長をじっくりと描く世界観を深める。安田もまた、役者から自発的な動きが出てくる相米の演出を観察した後、若い映画監督に可能性を見出す。彼の名は是枝裕和。以後、「企画」という役割で、是枝の『ワンダフルライフ』(1999年)、『DISTANCE ディスタンス』(2001年)、『誰も知らない』(2004年)、『花よりもなほ』(2006年)、『歩いても 歩いても』(2007年)、『空気人形』(2009年)と6本の是枝作品を手がけ、是枝は2000年代の日本映画界を牽引する映画監督へと成長し、国際的にその存在を大きくした。
もうひとり、安田が発掘したのが西川美和だ。2003年の『蛇イチゴ』、2006年の『ゆれる』、2009年の『ディア・ドクター』と安田は3本の作品の企画を務めた。いずれも嘘と本心の格闘を描き、西川が高い評価を得るに至った作品だ。また、相米の『東京上空いらっしゃいませ』で主人公・ユウに体の関係を迫る専務役と、天使のコオロギの二役を演じた笑福亭鶴瓶は、西川の『ディア・ドクター』で、医師免許を持たない医師という二面性を抱えた主人公で堂々たる演技を披露し、第33回日本アカデミー賞ほか数々の国内映画賞で主演男優賞も受賞。相米から西川への奇妙な縁も感じさせられるのだ。ところが2009年3月8日、彼は急逝する。最後に「企画」でクレジットされた作品は国本雅広監督の『おにいちゃんのハナビ』(2010年)だった。
安田の死から間もなく、是枝は自身のブログで、安田がなぜ、プロデューサーの肩書きを好まず、「企画」という役割(肩書き)に自らを限定していたのかを考察した文章を寄稿した。脚本作りやキャスティングと共闘しながらも、撮影現場では監督のディレクションに口を出さない姿勢について、「そのような繊細さは恐らく相米慎二監督との仕事から、安田さんが見出したスタンスだったのだろうと思います。」と述べている。
1990年代、相米慎二の撮影現場で探った良き映画づくりのエッセンスを、安田は2000年代、是枝と西川の映画づくりで花開かせた。三者三様を見守り続けたひとりの映画人の功績をいま再び見直したい。