作り手と観客の裾野を広げ、多様性の源となっている「ミニシアター」の存在意義
映画はお客さんに見てもらって初めて誕生し、世の中に出て行く。日本ではこの10年間ほど、1年間に1000本を超える映画が公開されてきた(コロナ禍の2021年にも959本!)。日本映画だけで約600本、実際にはもっと多くの映画が作られて、3600あまりのスクリーンにひしめきあう。
百花繚乱の映画状況を支えているのは、東京・渋谷のユーロスペース(1982年開館)をはじめとするミニシアターだ。公開される映画の4割は、ミニシアターだけで上映されているという。大手の製作・興行網の外側で製作された日本映画も、大きな恩恵を受けてきた。作り手と観客の裾野を広げ、多様性の源となっている。
ミニシアターが登場するのは、日本映画界の斜陽化が進んだ1970年代。撮影所で監督を育成してきた映画会社が製作体制を縮小すると、出自のさまざまな作り手が現れる。彼らが作る個性的な作品に大手映画会社は尻込みし、積極的に上映したのはミニシアターだった。
1980年代後半、原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」(1987年)がユーロスペースで異例のロングランヒットとなり、ドキュメンタリー映画の興行価値を引き上げた。塚本晋也監督が自主製作した「鉄男」(1989年)は中野武蔵野館(2004年閉館)のレイトショー公開から火が付いた。阪本順治監督の「どついたるねん」(1989年)は映画館を特設。究極的ミニシアターでの独占上映だった。
1990年代の全盛期、面白い邦画はみんなミニシアターで見た気すらする。シネ・アミューズ イースト&ウエスト(2008年、ヒューマントラストシネマ文化村通りに名称変更後、2009年閉館)の「幻の光」(1995年/是枝裕和監督)、銀座テアトル西友(2000年、銀座テアトルシネマに名称変更後、2013年閉館)の「萌の朱雀」(1997年/河瀬直美監督)といった、後の人気監督のデビュー作。ユーロスペースで公開された「鬼畜大宴会」(1997年/熊切和嘉監督)など、ぴあフィルムフェスティバルの入選作。ミニシアターがなかったら世に出なかった。
世紀の変わり目に映画館がシネコンに転換し、時期を同じくしてデジタル化が進むと映画界の景色は一変する。シネコンはヒット作を偏重し、観客も話題作に集中してクセのある映画が振るわなくなる。一方で、手軽に高品質の映像製作が可能になって作り手の間口が一気に広がり、大量の自主製作映画が作られるようになった。
力尽きて閉館したミニシアターもあるものの、いまなおインディーズ映画の駆け込み寺だ。「SRサイタマノラッパー」(2009年/入江悠監督)を受け止めた池袋シネマ・ロサ、異色作「サウダーヂ」(2011年/冨田克也監督)はユーロスペースで火が付いた。興収35億円の大ヒットとなった「カメラを止めるな!」(2017年/上田慎一郎監督)も、スタートはK‛s cinemaによる単館公開だった。
コロナ禍の打撃に負けず、ミニシアターの奮闘は続く。個人製作のアニメ「音楽」(2020年/岩井澤健治監督)は新宿武蔵野館が光を当て、ヒューマントラストシネマ渋谷は「COME & GOカム・アンド・ゴー」(2021年/リム・カーワイ監督)を発掘。ベテランの高橋伴明監督が「夜明けまでバス停で」(2022年)を全国のミニシアターを結んで公開して社会に異を唱えると、多くの観客が賛同した。ミニシアターなくして日本の映画文化はあらず、なのである。