日本で2人目の女性監督となった女優・田中絹代、その軌跡を振り返る
私の古巣、キネマ旬報社には、当時、戦前からの本誌を合本にした書庫があった。もろもろひと段落した夜中、そこで昔の「キネマ旬報」を読むのが好きだった。これからやるべきことや、映画の動向、雑誌を手に取る人の興味の移り変わりなどを考えるとき、既に創刊から80年近く経っていた「キネマ旬報」は得難いデータベースとなったからだ。
そうやって先人たちから雑誌を通してアドバイスをもらうなか、いくつか気になることがあった。それは女性の脚本家、監督が、作品の評価とは異なる方向から一方的な評価を受け、また記事を書かれていたことだ。他紙に反論記事を出された方もいたが、監督至上主義のなか演者はなかなか言葉にしにくかったのだろう。反論されることもなく、その評価が定着しているケースも少なくないと感じた。
そんな中に田中絹代もいた。松竹下賀茂撮影所でサイレント時代から映画の演技をスタートさせた女優で、栗島すみ子と入れ替わりで一世を風靡し、島津保次郎監督、五所兵之助監督、清水宏監督、小津安二郎監督、溝口健二監督、成瀬巳喜男監督、木下惠介監督、市川崑監督、熊井啓監督らと多くの傑作を生み出した。
『風の中の牝鶏』の子どもの入院費のために一度だけ身を売る、夫の復員を待つ妻、『お遊さま』の妹の夫に心を寄せる商家の後家、『西鶴一代女』の家の都合で人生を翻弄され、身を滅ぼしていく女、『サンダカン八番娼館・望郷』の元ボルネオのからゆきさんだった老婆など、どんな身分の女性でも田中が演じると気持ちを託したくなった。
田中が初監督したのは1953年。同年、成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』の現場で演出の修業をし、『恋文』に臨んだ。女性の監督は日本で2人目。そんな初監督への思いを、「キネマ旬報」が取材していた。インタビュアーは、映画評論家の岸松雄。田中とは、脚本家として『銀座化粧』で仕事をしている。きっと旧知の仲だったのだろうが、記事の行間に “監督することで演者としての不満をはらそうとしている”とか、“女性が監督するのは難しい”と言わせたい意図が見えげんなりした。
田中は監督としては6本の映画を世に送り出している。中には、五社協定に苦しめられた『月は上りぬ』もあるが、私はどれも当時の評価よりずっと肯定的に捉えている。そう。いまは昔よりずっと多く、彼女の出演作、監督作を観る機会がある。もう文献が先行する時代ではないので、先人の評価に縛られることはないのだ。ぜひ自分の受け止め方で、田中絹代の世界を楽しんでほしい。